残り香

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その女は、わたしの部屋に入ってくるなり、顔をちょっと傾けた。
「主人が来たのね」女は静かに言った。「残り香がするわ」
「いいえ、奥様」わたしは首を振りながら答えた。「ご主人は、いらっしゃっていません」
「もう結構。わかったから。でも、あなたに主人を渡すわけにはいかないの」女は微笑んだ。「秘書をしている若い女に夫を寝取られたなんて、プライドが許さないし。わたしたちの……何ていうかしら、社会的な立場っていうものもあるのよ。あなたには理解できないかもしれないけど」
女は、わたしなどいなかったかのように背を向けて、部屋を出て行った。
わたしは、化粧棚から、オーデコロンの小瓶を取り出した。わたしが、あの女の夫にプレゼントしたのと同じものだ。
部屋の窓から、あの女の姿が見えたとき、わたしは素早くこのオーデコロンを部屋にスプレーした。
これで、あの男と、やっと別れることができる。
ミステリー・推理
公開:21/10/01 19:21
更新:22/08/08 21:47

紫丹積生( 千葉県 )

 冷たい夜、漆黒の空に浮かぶ細い三日月を見上げながら、そっと考えてみる。
 語れば語るほど、伝えたいはずの思いが遠ざかっていくのは、なぜだろうか。
 うわべだけの安直な言葉や表現は、輝き始めた世界を色のない平板な景色に一変させ、萌芽しかけた感動を薄っぺらで陳腐な絵姿に貶めてしまう。
 想いは、伝えるのではなく、感じさせるもの。ありふれたシンプルな言葉で、暗く、苦く、美しい物語を紡いでいきたい。

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