『ごくり』

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日曜の朝なのに土砂降りで気分が滅入る。
誰にするでもない言い訳とともに冷蔵庫から缶ビールを取り出してグラスに注いだ。
ごくり、と一口。
その瞬間、窓の外の雨が止んだ。
偶然だろう。もう一口。
ごくり。
今度はテレビの中の俳優が僕の名前を呼んだ。

怖くなってグラスを置くと、泡の表面に小さな文字が浮かんだ。
──続けて。

ごくり。
部屋の壁がゆっくり透け、遠くの海が見えた。
潮の香り、カモメの声。
胸が騒ぐ。これは夢か現か。

止められない。
ごくり。
今度は、あの日の彼女が目の前に現れた。
「久しぶり」と笑うその声に、泡が光を反射する。

「一緒にいたいなら、あと一口ね」

手が震える。
でも。
僕はグラスをそっとテーブルに戻した。

あの日のことを、まだ飲み込めていないから。

泡が静かに消えた。何事も無かったように。
世界は何も変わっていない。

喉の奥に、雨の匂いがした。
その他
公開:25/11/09 13:43
更新:25/11/09 19:01

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