ノンアルじゃなくなった日

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 醸造所の村井さんが定年退職の日を迎えた。僕は村井さんのコップにビールを注ぐ。村井さんが、入社以来のビールを口にした。
「あんだけ、ぐびぐび飲みたいと思っていたのに、いざ飲んでみると悲しいね」
 村井さんは、相棒の醸造タンクに「智子さん」と名付けていた。彼女に何かあると三百六十五日休みなく夜でも駆けつけて、機嫌が直るよう整備していた。手元が狂わないように、晩酌も飲み会もいつもノンアルだった。
「馬鹿だと思うよ。でもこれが生きがいなんだ」
僕は、そんな村井さんの後ろについてメモを取って回った。でも僕らの世代は定時で帰るし、飲み会ではビールを飲む。呼び出しもない。
 次の日「智子さん」の隅に「佐藤お前も根性出せよ!村井」って油性ペンで書置きがしてあるのを見つけた。僕は勤務の日だけノンアルを試している。「形だけじゃ追いつけないぞ」ってよく言われたけど、少しは村井さんの気持ちが分かるかもと思って。
その他
公開:25/10/31 21:54
更新:25/10/31 22:01

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