世界から「あ」が消えたなら

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ある朝、世界から「あ」が消えた。

「ありがとう」も「愛してる」も言えなくなった。
テレビは沈黙し、教室も静まり返る。国語も音楽も成り立たず、人々は戸惑った。

中学生の僕はちょうど反抗期だった。
毎朝お弁当を作ってくれる母に、夜遅くまで働く父に、いつも素直になれなかった。
でも「言えない」となるとなぜか言いたくてたまらなくなった。
不思議だ。こんなにも大切な言葉だったなんて。

人々はジェスチャーで、視線で、手紙で、想いを伝えようとした。
だけどどれも「あの言葉」には届かない。

そしてある日、「あ」が戻ってきた。
その瞬間、僕はリビングへ駆けこみ、声を張った。

「ありがとう!」

驚いた顔の両親がすぐに笑った。
たった一言なのに胸がぎゅっと温かくなった。

世界には言葉でしか届かない気持ちがあると知った。
その日、街には「ありがとう」の声があふれ、まるで春の花吹雪のように舞い降りた。
その他
公開:25/04/30 13:52

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