生け簀の底から
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海鮮料理屋の生け簀の底に、人間の手首が沈んでいた。じっと見ているうちに、女の左手の手首らしいと判った。そうしたら手首の方が、指で生け簀の壁をつついたり、手招きしたりして、俺を誘惑し始めた。俺はもうたまらなくなった。「あれも食えるかい?」通りかかった店員に尋ねた。「旨くないですよ、あんなの」「それでもいいから」店員は不承不承といった感じで、網を生け簀に突っ込み、手首をすくいあげた。厨房に運ばれる時、手首は俺に向かって、「また後でね」という風に手を振った。それからしばらくして、手首の活け造りが出てきた。俺は唾を飲み込み、箸を構えた。その時、薬指がないことに気づいた。俺がこの手首に惚れたことを、板前に見抜かれたらしい。
ホラー
公開:25/06/12 17:44
短い読み物を書いています。その他の短編→ https://tomokotomariko.hatenablog.com/
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