思い出の鍵

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老人ホームに入ることが決まった。
引っ越しの日、長男は静かに一本の鍵を差し出した。
「これ、家の鍵」
亡き夫、二人の息子と暮らした家は、取り壊す予定だ。未練がないと言ったら嘘になるけれど、覚悟はできている。
「もう必要ないわ」
「最後に試してみて。特別に用意した鍵なんだ」
長男が語気を強めるのは珍しい。私は困惑しながら鍵を受け取り、鍵穴に押し込んだ。

古い玄関扉をひらき、足を踏み入れる。すると、新築したばかりの頃の木と畳の匂いが漂ってきた。驚いて周囲を見渡せば、壁や柱、床の傷もすっかり消えている。ふと香る、金木犀。玄関に初めて飾った花だ。人好きのする夫が、お向かいさんからいただいたと嬉しそうに花瓶に生けた。それからは家じゅうに花を飾るのが習慣になった。

家が別れを惜しんでいる――そう感じた。
「今までありがとう。あなたのこと、忘れないわ」
約束は胸のなかにそっとしまい、鍵をかけた。
その他
公開:24/08/19 10:40
更新:24/08/19 10:41

いちいおと( japan )

☆やコメントありがとうございます✨
以前のアカウントにログインできなくなってしまい、つくりなおしました。

清流の国ぎふショートショート文芸賞 入選

ときどき短編〜長編も書いています(別名義もあります)

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