このいっぱいのために

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「この一杯のために生きている」
 澄んだ黄金色で満たされたグラスを傾け、臆面もなくそう言い切る親父だった。
 お気に入りは某有名メーカー製。キレのある苦味と喉越しが堪らないのだと。
 日常の鬱憤を飲み下しまたネクタイを締める。そうして俺を大学にまで行かせてくれたかっこいい大人だった。
 俺は親父のようにはなれなかった。苦味を飲み込めずに敷かれたレールを踏み外し、いつも仕事を転々としている。
 同僚以外ひとりの弔問客も来なかった葬儀を終え、馴染みの居酒屋の暖簾をくぐる。
 店主の気まぐれで選ばれたクラフトビールを手に取ると、事情を知る常連たちが周囲を固めてくる。指先が震えた。
 緩めるネクタイもないおっさん共で肩を組み、多種多様な黄金色で染まったジョッキをぶつけ合う。
 安定したいつもの一杯は俺には遠かったけれど。この個性的で味のある一杯のために。
 このいっぱいのために、俺は生きている。
公開:23/10/25 20:06

ぴろしき

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 @yosisige

上記アカウントにて駄文を垂れ流しているインターネットポエム揚げパン。
にほんご、すき。

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