釣り糸

　男が堤防で釣りをしていると、不意に携帯電話が鳴った。…見知らぬ番号だ。そう思いつつ電話を受けると、若い女の声がした。
「…どちら様でしょうか?」
　女は名を名乗り、今、この瞬間、自分は恋人に殺されそうなので助けて欲しいと言った。
「は? どうされたんですか?」男が問うと、女は「ドライブ中、カレが豹変してっ!」「このままだと海に落ちるっ!」「アンタッ!　早く助けなさいっ!」とヒステリックに叫び続けた。

「…もう切りますね」
　イタズラと思われる内容にも嫌気がさし、男が電話を切ろうとした刹那――女の声が静かに言った。

「…もういい。アンタもこっちに来い」

　通話を切り、携帯電話をポケットに入れ、釣り竿を持ち直すと、糸に微かな重みを感じた。
　足元に目をやる。堤防の下、濁った海中で、糸に何かが絡まるのが見える。黒く…長く…渦巻いて…ゆらゆらと動くそれは、まるで女の人の髪の毛のような……。