耳を描く

どうせマスクなのだからと口や鼻を描かずに出社したら、不思議と食欲がなくなり、花の香りも感じなくなった。挨拶すらすることなく黙々と働くものだから仕事は捗り、同僚が私と距離をおいて、陰で噂話をするようになった。私は面倒になって耳も描かなくなった。
それからもう何年も人と会話をしていない。体重が減り、何も楽しめずに、こんな生活はよくないと、また口と鼻を描くようになった。久しぶりに描いた口はなんだか色っぽくて誰かにキスをしたくなったけれど、感染がこわくてそれも難しい。
みんなどうしているんだろう。口が色っぽいとき。
私は元カレに電話をした。すると元カレは「お前なまってるよ」と電話口で笑っている。
「なまるわけねえべさ」
あれ。おかしい。
私は何度も口を描き直した。
ごまかして嘘をついたり、恫喝したり、回りくどく中身のない話をしたり。
あれ。おかしい。
耳を描かずにいるうちに私は政治家になっていた。