黄昏のサイゴン

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「この店、いつまでやれると思っているの?」
私は乾いた布巾でグラスを拭く手を止め、カウンターの向こうに座っている男性客に視線を合わせた。

「できる限り長く続けたいですね」
仕事柄、酔客の気持ちのひだを不必要に撫で回すとロクなことがないのは百も承知だ。とはいえ、客である以上、無視するわけにはいかない。言葉を選び、ひとまず差し障りのない回答を返したつもりだったが、彼の口元がへの字に曲がったのを見逃さなかった。

「この期に及んでマスターの意思なんて訊いちゃいないって。オレが言ってるのは、この国が亡くなったらどうするのかって話だよ。わかるだろ?」
そう答えた彼の眼差しの奥には、内に抱える漠然とした不安とそれを打ち消したいがための挑発めいたものが含まれていた。

私はサイゴンでバーを経営していた。時は1975年4月下旬。サイゴンが革命軍に占領され、南ベトナムが終焉する数日前の出来事だった。
その他
公開:21/06/18 12:32
更新:21/07/19 05:56
ベトナム 戦争 バー

アカサカ・タカシ( Chicago )

2022年から米国シカゴ在住。

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