廃屋で

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なめらかなタイピングの音がソファでまどろむ僕の耳に小川のせせらぎのようにやさしく流れこむ。
不意に水面を魚が跳ねてタイピングが途切れると、小動物みたいな彼女のくしゃみがひとつだけミストのように聴こえて、その音が僕にとっての春だ。そう思った。
いろいろ世の中大変だけど今年も変わらずに春はやってきた。そのことが嬉しくて、僕は彼女を抱きしめたくて、屋根裏部屋に向かった。
彼女はここで小説を書く。この世の人ではないけれど、通りをはさんですぐ向かいの世に暮らしている。
キーパンチはやさしい。それなのに速い。きっと正確。僕はヤリイカの穂先みたいな彼女の指に触れる。彼女の指は、その手は、エンペラのように広がって、僕の手をひんやりと包む。僕は彼女を抱きしめる。彼女のからだは透きとおっていて、内側に無数のたまごを宿しているのがわかる。灯りを消すと彼女のたまごは天の川のように光って、そう、猫のように泣くんだ。
公開:21/02/23 09:50

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