やさしい町

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まだ明けきらぬ霞みがかった群青の海を漁を終えたいくつかの船が将棋の駒のように点在前後してこちらにやってくるのが見える。
私は自宅の屋上にある砲台で、妻に命じられたとおりに、いくつかの漁船に照準をあわせる。
望遠レンズを覗くと、色鮮やかな大漁旗と、漁師たちの充実した表情が見てとれる。
「撃てぇー!撃てぇー!」
寝室から妻の叫びが聞こえる。
このおだやか港町で、私の妻だけが戦時下にある。戦時症という病だ。
叫ぶのは春に限ったことではないけれど、やはり春に聞く号令ほどせつないものはない。
私はこの屋上で不意にやってくる妻に現状報告をしなければならない。
本来なら戦果のない私は叱責されるところだけれど、妻の症状はそこまで悪くはないから、やっているふりさえしていれば、安心してその日は静かに眠ってくれる。
新聞配達の吉永くんは装甲車で。往診の立岡先生はほふく前進でやってくる。
なんてやさしい町だろう。
公開:21/03/17 11:28

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