こびんときおく

　忘れてしまった記憶と鮮明なままの記憶の差は何だろう。
　古いドラマをみていると、下町で遊ぶ子役に目がとまった。美容液の蓋を開けかけた妻は手を止めて「あら、かわいいわねえ。でも」
　顔に見覚えがあるのだが、名前が思い出せない。眼鏡をかけなおし画面をみつめる。エンドロールにも名前は記されておらず、インターネットのデータベースにも記録がない。
　町の場所は思い出せるから、役所に聞いてみようかな。「子役の経験が幸せともかぎらないし、昔を思い出したくない人もいるわ」結婚前からいままで、妻には苦労を掛けてきた。蓋をしたままのほうがいいこともある、という意味だろう。皺の増えた手から美容液の瓶を受け取り、会話を切り上げて席を立つ。
　食事前に洗面台で手を洗う。頭が忘れた記憶でも皺には残っているのだろう。自分の手を見て、ついでに顔を上げて眼鏡を外す。
　数十年後のあの子役が、自分を見返していた。