しあわせの電車

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 一昔前には「通勤」という言葉があったらしい。 
 今では考えられないことだ。
 仕事のためにわざわざ電車に乗るなんて。
 ずれたヘッドフォンをなおして男は考える。
 ヘッドフォンにはマイクが付いていて、仕事相手と繋がっている。
 今では家で仕事をするのが当然だ。
 社屋が無駄であるとしてそもそもないので、社員は入社から定年退職まで、家で勤務する。
「ねえ箱根で温泉にでも入りましょ。冬だし」
 そんな彼女のかわいらしいお願いで外に出る。彼女の顔を直接見るのも久しぶりだ。生身の彼女は香水の香りがした。
 電車は楽しそうな顔の人々で満ちている。家族連れ。友達同士。電車は楽しい予定にわくわくした人しか居ない。
「昔は通勤電車というものがあったそうだよ」
「なあにそれ。働くために電車にのるの?」
「ああ。だからずいぶんみんなしかめ面だったらしい」
 彼女は「電車に乗っているのに変なの」と笑った。
SF
公開:20/10/15 05:56
更新:20/10/15 06:06

七田 次美( 東京都 )

SFとミステリが好きです。
Twitter:https://twitter.com/Nana11830

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