越えた夜のこと

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妻が出てゆくという。
テレビで報じられたのだから無理もない。私は動物園の飼育員として守るべき一線を越えてしまった。
言ってみればただの職場恋愛だし、相手は独り身だ。ただ私には家庭がある。だから言い訳などできないけれど、世間に知られたことで、これから彼女が色眼鏡に晒されてしまうことがつらい。明日から動物園は大混雑するだろう。
あの日私は体調不良の同僚に代わってスマトラオランウータンの出産を見守っていた。ひどい熱帯夜だったけれど、美しい生命の叫びに触れて言葉にできぬ感動を覚えた。
私は隣の房で暮らす彼女のことを想った。彼女が生まれ育ったザンビアの空と、限りある私たちの生を。
深夜。私は出てゆく妻を寝室で見送り、眠りに落ちた。
流れ出る寝汗で寝室の床は濡れて、密林の中を追われる夢を見た。
寝室に吹く暖房の風。見当たらないリモコン。なぜエアコンの本体にはスイッチがないのか。聞きたい妻はもういない。
公開:20/08/16 16:49

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