思い出せないけれど、忘れていないもの

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 恐らく、というよりも確実に僕らはこの世界の、ほとんどの名曲を聴かずに、ほとんどの名著を手にすることなく、ほとんどの名建築を目のあたりにせず死んでいく。
 こうした展望は、あるいは悲観的に聞こえなくはないけれど、思えばすでにこれまで読んできた書物の大半でさえ、自分の手を離れた瞬間からその原形のまま記憶しているものはない。ある部分を忘れることによってのみ、人は他の部分を記憶できる。他の部分、そこが本質的に重要な部分に他ならない。こういう記憶の仕方によって、人はメロディを忘れてもその音楽を記憶し、細部を忘れてもその風景を記憶する。日常的な愛を忘れても、愛の神聖な華だけは残る。それは常に、ある種の雰囲気であり、匂いであり、そこはかとないものである。捉えきれれない予感のようなものである。
 そうした思い出せないけれど、忘れないものが、語り得ない彼女の澄んだ両眼をつくっているのを僕は知っている。
公開:20/05/26 18:39
更新:20/05/28 09:45

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