深煎り

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「遠足が中止になったの」
年老いていろいろ忘れてしまう母が子供の頃の台風を憎んでいる。
「あの人が楽しみにしてたのに」
「あの人って」
「みつのぶさんよ」
それは父のことで、父と遠足には何の関係もない。ふたりが出逢ったのは大人になってからだ。母の記憶はそうやって、時空を超えて混ざりあう。楽しかったことやつらかったこと。美味しかったことや悲しかったこと。いろんな記憶がブレンドされて、母だけの、今だけの味わいが、コーヒーのように抽出される日々。
自宅で介護している私はそれを受け流すだけ。受け止めてはいけない。
母はかつて「花びらやぶれ」という名の漫才師だったという。相方の「かぶれ」がロシアでダンサーになると言って姿を消しコンビは解散したが、母は今も舞台に立ちたいと願っている。
私は母のオムツを替えながら今日もそんな物語を聴いている。
母は専業主婦だった。そして今は物語を紡ぐ、深煎りの小説家だ。
公開:20/02/25 14:52

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