付けたくない

4
5

住宅街の夜に踵が鳴る。

今夜は特段冷えるらしかったが、そこまではひどくない。
昔からある古いマンションの横を通ると、一瞬だが煮物の香りが漂った。
その瞬間、何かが私の胸を揺さぶる。

懐かしさでは、ない。

むしろ忌嫌う匂い。

母が昔言っていたのを思い出す。
「こんな貧乏くさいマンションが横にあるなんて。」
家族での食事だろうか。小さい子供でもいるのだろう。
慎ましい家庭で作られる、慎ましい煮物の匂い。きっと味も慎ましいだろう。

今は無き子を思い出す。
あれでよかったのだと自分に言い聞かす。
でなければ今の自分はない。
今頃悲惨な顔でおむつを替えていただろう。
そんなものは私の人生には要らない。
繰り返し言い聞かす、
あれで良かったのだと。

今は脇目も振らず、ただただ自分の踵の音にだけに意識を集中させる。
この感情に名前はまだ付けられない。
付けたくない。
恋愛
公開:20/02/18 20:32
更新:20/02/19 08:30

コメント投稿フォーム

違反報告連絡フォーム


お名前

違反の内容