卒婚旅行

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「あなた、お話があります」長く務めた会社を退職した私の前に、妻は正座していた。
「何だね。怖い顔して」
「あなたと結婚して三十年、自分の人生を生きていない気がするの。お互い別の道を歩きません?」
 妻が言うには、私の事が嫌いではなく、残りの人生を自分らしく過ごしたいという。今流行りの卒婚らしい。思えば、仕事で忙しく、家にも碌に帰らなかった。私に退職金が出るまで我慢していたんだと、切なくなった。
「いえ、お金は要りません。代わりに」
 妻の提案は、旅行だった。思えば、私は、新婚旅行さえも連れて行ってやれなかった。償いに最後は、贅沢に過ごしてもらおう。私は、温泉を予約した。硫黄の匂いに囲まれて体を温め、刺身に舌鼓をうち、妻にお酒を注いだ。こんな幸せは何十年ぶりだろう。
 帰りの電車で「すまなかったな。ありがとう」と言うと、妻は「ええ、来年もまた行きましょう」と、私の皺の刻まれた手を握った。
その他
公開:19/12/08 22:38

吉村うにうに( 埼玉県 )

はじめまして。田丸先生の講座をきっかけに小説を書き始めました。最近は、やや長めの小説を書くことが多かったのですが、『渋谷ショートショート大賞』をきっかけにこちらに登録させていただきました。
飼い猫はノルウェージャンフォレストキャットです。
宜しくお願い致します

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