完熟の部屋で

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「よしっ。ハモってやるよ」
3日ぶりに帰ってきた父親は、私の顔を見るなりそう言った。
「お前の好きなやつを歌えよ。とーさんついてくから」
「いいよ別に」
「歌わなきゃはじまらねぇだろ」
何をはじめようというのかわからないけれど、私は仕方なく父親の好きなスピッツと加山雄三を歌う。
相変わらず父親のハモりはすごい。ぐいぐいと攻めてきて、主旋律を歌う私も力を抜くわけにはいかなくなる。喉の内壁から分泌されるとろりとした何かが私の内側に作用して、放っておかれた寂しさや、父親への苛立ちをゆっくりと包んで溶かしてゆく。
お皿にのせたミルフィーユの襞が父親の声で震えている。冷めたはずのコーヒーが温まり、枯れかけていたアボカドの木がみるみる潤いを取り戻してゆく。
私には母親がいない。
父親はこの部屋で、未婚のまま私を育ててくれた。何をして生きている人かは知らない。
私は父親の声とアボカドの木の間に生まれた。
公開:20/01/10 14:38
更新:20/01/10 14:40

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