送りオオカミ

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「君の瞳に乾杯」
真剣な顔でそう言われて、私は思わず吹き出した。
それでも彼は表情を変えない。
私は頭が真っ白になった。笑う以外の選択肢が浮かばない。
彼は映画を知らず、自分の言葉として君の瞳に乾杯と言ったのかも知れず、だとすればそれは本気の告白なのかも知れず、でもふつうは照れて口になどできないセリフだし、でもそう思うのは私だけで、彼は壁を越えようとしているのかもしれない。
しかし。
「蝶子さん」
「は、はい」
どうしよう。彼が迫る。
こ、これはつまり。
「ま、待って!」
さっき彼は私の名を呼んだ。それははじめてのこと。彼は身を寄せて、私の手を取った。
「じゃ、お部屋帰りましょう」
彼とのリハビリを終えて、私たちは病室に向かった。
送りオオカミなどとうに絶滅したこの世界で、私は今日も逃げ足を鍛えている。

厚生労働省が試験的に導入した演劇療法により、リハビリの劇的な進歩が報告がされた。
公開:19/05/10 11:03
更新:19/05/11 06:48

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