黙礼(靴底の影)

8
7

 婦人は庭先の紅葉を愛でていた。

 駅南は空襲を免れた錯綜する路地である。彷徨った挙句、その一角に突如現われた婦人宅の白塀は、だらだらと長い。犬の糞をよけ、烏影に怯えながら屋敷の門を潜った。彼女は夫を亡くしていた。

「赤ちゃんはね、最初の一息は苦痛以外の何物でもないんです。温かな水に浮かんでいたんですから。自分で呼吸することが人生最初の試練だわ。彼もそうやって命を燃やし始めたの」

 曲がりくねる庭の小径を辿りながら、彼女に取材をした。

 辞去する際、私は彼女に、年月を経た今、かつて自分のしてきたことを、どう思っているか? と尋ねた。

「悔い? ありませんよ。過去も現在も私は幸せです。ジョセフ、いらっしゃい、薔薇を傷めてはいけませんよ」

 私は、悪いものにでも当てられたかのような気分で黙礼した。門の中から私を見送るアフガンハウンドと婦人の影法師が、いつまでも靴底から消えなかった。
ミステリー・推理
公開:18/10/29 07:26

新出既出

星新一さんのようにかっちりと書く素養に乏しく、
川端康成さんの「掌の小説」のように書ければと思うので、
ショートショートとはズレているのかもしれないです。
オチ、どんでん返し、胸のすく結末。はありません。
400文字、おつきあいいただければ幸いです。

コメント投稿フォーム

違反報告連絡フォーム


お名前

違反の内容