第31話「姉とお内裏様」

お雛様出そうよ、と言って妹の翠は今年も絵を描き始めた。お内裏様の絵だ。
うちの雛飾りにはお内裏様がいない。ちょうど8年前、お父さんが姿を消した日から、いなくなったのだ。それ以来、あたしや翠が絵を描いてお雛様の隣に置く。毎年、絵の隣に黙って座るお雛様が哀れだった。翠はお内裏様を覚えてもいない。
絵心がついてきた翠は納得がいかないのか、何度も描き直した。
「もういいじゃない、翠」
絵も見ずに姉は言う。この時期になると、姉は心をどこかにしまい込む。ある日突然消えた父と、父を追って家を出た母のことを思い出すんだろう。わかるけど。これでは翠が可哀想だ。つい、あたしは言ってしまった。
「お母さんはお父さんに会えたのに、お雛様はまだ会えないんだね」
姉はそれを聞いて泣き出してしまった。真相を、あたしは知らなかったのだ。

翌朝、雛壇にお内裏様が戻っていた。
台所に立つ姉の背中を、あたしは強く抱きしめた。